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資格などの勉強を辞める、諦める方法と始める方法。いざアンラーンだ!リスキリングだ!謎の風潮

本屋でブラブラとしていましたら、人生の折り返し地点を過ぎたらば、いろんな習慣を辞めてみるべきなのではないかという趣旨のエッセーを見つけて、なるほどと思い、少し立ち読みしてしまいました。タイトルは忘れましたが、Amazonで「やめてみた」と検索するとそういった類の本がぱらぱらと検索に引っかかります。

そうですよね。このコンテンツが無限に出てくる時代に於いて、どんどんどんどんコンテンツを吸収し、あれもやってみよう、これもやってみようとしていれば、必然的に睡眠時間や食事の時間が減るばかり。生きるという資源が無限ならばそういうライフスタイルでも問題無いと思いますが、有限である以上、自分が本当に価値があると思うものにリソースを投入しなければ、あっという間にこの世から出て行くシーン到来ですよ。

できるだけ執着を捨てて生きていくのが、仏教国であるこの国のライフスタイルであって然るべきですからね。

ということで、今月宣言した通り、徐々に英語の勉強時間を削減していっています。2013年から再開した英語の勉強は、2020年までの7年間は週に一回35分程度。2020年から今年2023年までは週に2、3回に分けて80分程度の英語学習を続けてきました。

なぜ辞めようと思ったか。それはもう圧倒的に英語を使うシーンが無いからです。残念ながら人生現時点の前にも後にも。友人の結婚式に行ったとき、参列者の紹介タイムがあり「私がイギリスに住んでいた時の恩人で~」だの「アメリカで○○という活動をしていたときに知り合った~」だのというスピーチがありました。

結局は英語というものは、万人に触れられる機会はあるものの、それを実用的なもの、生産性のあるツールとして使う環境に置かれるのは、教養のある家庭、お金持ちの家庭に育った人、もしくは見た目のいい人だけなのだな、ということを痛感した経験があります。

それともう1つ。このコンテンツ過多の時代を逆に逆手にとることもできると思いました。つまり、簡単に言えば、今後万が一にも英語を求められる機会が自分に訪れたならば「その時に徹底的に死に物狂いでやればいい」、ということです。コンテンツはもう有り余っているのだから、必要なときに集中してやれば、(スマホでアプリを取るように)付け焼き刃でもなんとかなるのではないか、という考え方です。

そのために、勉強時間を完全にゼロにしてしまうのはあまりにももったいないので、勉強を辞めると言っても完全に無にするのではなく、今の週80分から週20分に減らすというやり方にするつもりです。こうすることで前述した「英語を求められる機会がこの先訪れたとき」に、復帰が早くなると思うからです。コールドスリープ中でも、人体への少量の栄養供給は必要ですもんね。

自分はまあ一般的な日本人と同じく、英語は中学校一年生から勉強を始めました。しかし、幼稚園の時に家の近くの公文式に通っており、そこで国語、算数、英語をやらされていました。国語と算数はクソ面倒くさかったのですが、その公文式で人生で初めてアルファベットというものがこの世界にある事を知り、当時、忍者やスパイのようなものにハマっていたこともあり、アルファベットを使えば自分だけしか読めない暗号ができるじゃないか!すごすぎる!と、無我夢中でローマ字読みを勉強した覚えがあります。

小1に上がると同時に公文を辞めたので、小学校時代は英語に触れることはありませんでしたが、テレビでACジャパンやユニセフのCMが流れたとき、国連でアフリカとかの貧困問題に取り組んでいる人ってすごいなあと、漠然と妄想してた事もあります。当然自分の人生には、そんな所で働く機会など訪れる余地はありませんでした。

2013年に学習を再開したきっかけは、ゲーム(洋ゲー)と東京オリンピックでした。しかし東京オリンピックもあんなことになり、ゲームへの熱も10年前とは比べものにならないくらい冷めてしまったので、モチベーションを維持し続けるのが難しくなっているというのもあります。

とまあそんなこんなで、英語学習20周年記念、および最後のあがきとして、西澤ロイという人が書いた、英語学習のつまずき 50の処方箋、という本をメルカリで買ってみました。ネットニュースで英語系のニュースを読んだときから気になっていた本です。

まあ読んでみての感想としては、英語学習を辞めようという思いは変わらなかったし、やっぱり言語学習というジャンルは、人生を賭して気が遠くなるくらいの時間を投入する必要があるんだなあということを改めて実感させられました。

ちなみに一応僕のメルカリのほしいものリストには、こんな本も入っております。「語学の天才まで1億光年」。

今読んでいる本は「プロジェクト・ヘイル・メアリー」という大人気のSFです。

この小説の初めの方に、世界中のアマチュア天文家たちがアメリカの国家機関に情報を提供して危機を訴えるみたいな、ベタな展開があるのですが、このシーンを読んだときに、なんでアマチュア天文家とかアマチュア写真家という存在はいるのに、アマチュア科学者とかアマチュア数学者とかアマチュアの土木作業員みたいな存在がいないの?と考えました。

アンラーンだリスキリングだ、中高年の再学習だなどと意気込んでいるようですが、その学習内容はなぜかデジタル技術に関するものばっかり。

この宇宙の96%はいまだ謎に包まれているにも関わらず、学ぼうと推奨されるのは人間が作ったパソコンポチポチ?視野狭窄すぎやしやせんか?

別に中高年から核融合発電を学んだっていいじゃない。捕縛スキルとかでもいいじゃない。医者を目指したっていいじゃない。家具作りでもいいじゃない。ブラックホールに行ってみようとか量子力学やってみようとかでもいいじゃない。山の行より里の行。

そういう風に、せっかく人間として生まれたのに、やりたいと思ったことを実行に移せない社会の構造って、未熟で幼稚で骨子のない社会だと思いますけどね。どうでしょうか。

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